誰のために生きる?発達障害の娘と私

なんでも引き受けてしまう私。そろそろ限界かな。

親ガチャ 当たり?はずれ?

今朝の羽鳥慎一モーニングショーで親ガチャが取り上げられていた。

子どもは親を選べないということを現代的に風刺されている。

反対に障害を持つ子が親を選んで生まれてくるという詩がある。

Edna Massimillaの『天国の特別な子ども』である。

また、ダウン症の子どもを持つ親の詩として『オランダへようこそ』というのも有名。

これは親ガチャとは相反する思想になるんだけど、正直に言うと私は親ガチャがあることに高校生くらいで気が付いた。私はバブル世代でそういう思想はあまりなかったとは思う。だが、十分な教育を受けるには学校だけでは不足であることを悟った。そして親がお金持ちだとやはり学力をつける機会があたえられて進学できる。進学したらそれなりの給与を得られる仕事につけるのだ。

兄はなぜか塾など行かなくても勉強ができたので親は勝手にできるようになると思っていたらしい。母は教えなくてもなんでもできるようになると思っている節がある。父は何にも考えていない。私は教えてもらわないと勉強できなかったし兄は今でも家事ができない。私は母に家事を教わった記憶はほぼない。自分のお菓子作りに付き合ってもらったくらいかな。

私は勝手に読書好きになり料理好きになったりして自分で興味をもった本を読んだりお菓子作りをしたりした。小学生なのにマナー本や冠婚葬祭のしきたりとか(笑)その時に生き物の本も大好きだったがあの時に親が博物館に連れて行ってくれていたらなあと後で思った。子どもだから博物館という存在を知らないのだから。子どもは基本、情報弱者なのである。(特に昔だったから?)

博物館などで見識を広げるという体験は親の知性に左右される。子どもに興味を持たせるかどうか、好きなことを伸ばせるかは親しだいなのだ。そういうことを羽鳥慎一モーニングショーで言ってました。

私は当たり?はずれ?経済的にははずれ(笑)のようだが兄も大学を出ているし私も一応、短大を出してもらった。(歯科衛生士専門学校と同じだったけど)でも、小学生の時に私には貧乏の呪いがかけられていたので貧乏だと思っていた。奨学金も借りて自分で返したし。

虐待されたわけでもなく医療も教育もほどほどに受けていたし毎日ご飯は食べてたし。まあ生かしてもらえた。当たりはずれは決められないけど生きてるだけでまあいいかとも思う。

うちの子は当たり、はずれどう思ってるのかな?ちょっと気になる。我が家の遺伝子は低身長。これは克服できず息子も身長低めである。でもスポーツをするのでガッチリしたためそんなに低身長にコンプレックスは持ってないようだ。美醜もしかり。親もそこまで美男美女ではないからそれなりだ。だけど息子はいいところを探すのが得意なので割と前向き。娘は悪いところを気にしてしまう。同じように育てたつもりだけど正反対。

やはり娘が障がいのため、苦手なところを克服しようと働きかけたり、療育を受けるという経験を積んでしまったせいかもしれないと後悔することも。

療育はよかったこともたくさんあるんだけど、ほかの子がしない特別な習い事をしているのは本人は自覚しているのでそれは自分ができないからだってわかってしまう。

絵画展で賞をもらっても表彰されるのが怖いので盛大にほめてもらえる場なのにうれしくなかったようだ。好きな事を伸ばせるのかと思ったのだけど。

 

親ガチャは存在すると思う。天皇家に生まれたり歌舞伎役者の家に生まれたらジャンボ宝くじに当たって生まれているようなものだ。だけど宝くじと引き換えに「~であらねばならない」という決まりとか厳しい世間の目にさらされるという環境も同時に与えられる。この親ガチャがその子にとって本当に幸せなのかそれは本人が決めることなんだろうけど。周りは当たりだねって思うよね。

私から見て子どもガチャは(笑)私は正直に言うとこの二人でよかった。なんせ真逆の二人。子育ては親育てでもある。障害のある子とない子の親の両面から冷静に見る目を持つようになった。決して普通を良しとせず普通の基準もなくなった。個として子を見るのだ。そう思って楽しめている。

しかし生を受けたにも関わらず命を失うような大外れの親ガチャはなしにしてほしいものだ。